日本を飛び出し、海外での活躍を目指す日本人をサポート

松本 博明氏
(まつもと ひろあき)
キャリア・インテグレーション・アジア
代表取締役社長 松本 博明氏
新卒で人材派遣大手パソナ入社、海外での活躍を目指し同社退社。来港し現地採用で香港の人材紹介会社Asian Success入社。2005年にCareer Integration Asia Co., Ltd.を設立する。
現在は華南エリアの日本人に特化した人材紹介サービス「華南ワークス」(http://kananworks.com)を展開する。また、香港をはじめとする海外の中小企業経営者・将来独立を目指す人々が集う海外起業家ネットワーク「和橋会」(香港、深セン、上海、シンガポール)を事務局として運営している。
キャリア・インテグレーション・アジア
http://kananworks.com
英語名:Career Integration Asia Co., Ltd.
設立:2005年3月
資本金:50万香港ドル
住所:香港湾仔港湾道6-8瑞安中心2F(2/F., Shui On Centre, 6-8 Harbour Road, Wan Chai, HongKong )
連絡先: TEL +852-2511-8321 FAX +852-2824-8000
事業内容: 人材紹介業
海外での活躍目指し、人材派遣大手を退社
「海外で花開きたいと考える若者たちにチャンスを与えたいんです」こう熱く語るのはキャリアインテグレーションアジアの代表取締役社長、松本博明氏。華南エリアに特化した人材紹介・転職支援サービスを展開している松本氏は、日々、海外での活躍を目指す日本人からの求職依頼や相談に応じている。
そんな松本氏ももともと大手人材派遣会に勤めながらも、海外にあこがれて日本を飛び出してきたひとり。ほとんど何も知らない状態で香港の土を踏み、日本で培った経験やノウハウを活かして、社長にまで上り詰めた実力者だ。人材紹介・転職支援サービス「華南ワークス」を展開するかたわら、香港や深センの中小企業経営者らが集う海外起業家ネットワーク「和橋会」を事務局として運営。海外での活躍を目指す日本人にエールを送っている。(以下、松本氏)
私は『華南ワークス』という中国華南エリアに特化した人材紹介・転職支援サービスを運営しています。毎月、日本や中国国内の大学生(新卒)から中高年の技術者まで、幅広い年代の方々から登録エントリーがあります。また、100社を超える企業様からは、中国語を駆使して中国人スタッフとの橋渡し役ができる若手から、総経理・工場長クラスの経営幹部まで、幅広いポジションで求人依頼をいただいております。そして『私たちは人と組織のキャリアの統合を実現し、双方に感動される企業を目指す』を企業理念として展開しています。
1998年に大学を卒業後、人材派遣大手パソナに就職。社会貢献性の高いビジネスや、経営者の生き様に憧れて入った会社なので、パソナそのものに不満はありませんでした。むしろビジネスマンとして成長させてもらったことに感謝しています。ただ、大企業によって敷かれたレールの上を走るだけではつまらない。できれば自分が今まで得た人材ビジネスの経験やノウハウを生かして、海外で働いてみたいと思いました。最初から起業を考えていたわけでありませんでした。当初は海外の日系人材会社で働こうと思い、香港、シンガポール、ドイツの会社に就職活動を行いました。2003年のことです。
最終的に香港の日系大手と、パソナを辞め香港で独立した日本人が1人で経営する人材コンサルティング会社の2社から内定を得ました。結果、自分の先輩に当たる元パソナ社員が経営する小さな会社を選んだのですが、最初は大手に行くつもりでした。でも、香港で数多くの日系人材大手を相手に、たった1人で奮闘する社長の姿に心を打たれて、この会社で頑張ってみたいという思いを強くしました。これがのちに、独立を促すきっかけとなったと思います。
新入社員の給与水準に逆戻り、
共稼ぎ認められず苦しい生活に
最初に与えられた仕事は新規顧客営業でした。香港の工業団地や倉庫街に点在する日系企業を歩き回り、求人依頼を集めた。仕事そのものはパソナ時代とさほど変わりませんでした。飛び込み営業は、パソナでも高く評価されるほど得意中の得意だったので、半年も過ぎると顧客との面識が広がり、次第に求人依頼が集まるようになってきました。月給は1万3000香港ドル(約20万円)と新入社員レベルに逆戻りしましたが、念願だった海外で働けることの幸せに満たされていました。
ただ計算外だったのは、夫婦で香港に渡った直後に、香港政府が外国人の就労に関する法律を改正したこと。自分自身は問題なかったのですが、永住権を持たない外国人の配偶者の就労が禁止され、妻の就労は不可能になりました。当時、流行した新型肺炎SARSの影響で、香港の失業率が8%近くまで悪化したのが法改正の理由でした。
新入社員なみの月給で、夫婦2人が生活するのはさすがに大変でした。香港の物価の高さは東京とそう変わりませんから。そこで入社1年後、ダメもとで社長に直談判をして給料を出来高制に変えてもらいました。出来高制に変わって、多い月には6万香港ドル(90万円)もの給料を得られるようになり、モチベーションは上がりました。
独立の転機が訪れたのは06年夏。実は、独立する前から、香港、華南と分かれていた会社の営業エリアのうち、華南エリアの運営すべてを任されるようになっていました。私から「華南はすべて自分にやらせてほしい」と社長に申し入れ、受け入れられたのでした。
給与が出来高制に変わったあと、自分1人でもある程度やっていける自信がついたので、思い切って社長に分社化を提案しました。華南エリアの営業権を丸ごと譲り受け、自分で切り盛りする代わりに、利益の一部を会社に納める仕組みです。いい予行演習ができたので、すんなりと経営を引き受けることができました。海外での起業は何かと大変だと聞きますが、自分は恵まれすぎているのかもしれません。